みみより情報(原爆で名前も失った1人の元原爆孤児の男性)

今日は終戦記念日・・『原爆で名前も失った1人の元原爆孤児の男性』

今日は74回目の終戦記念日ですね。

 

障がいのある人もない人も、戦争中は苦難の日々が続きました。

Yahooニュースで、原爆で家族も自分の名前も失い、今も自分のルーツ探しを続けている1人の元原爆孤児の男性(ろう者)が取り上げられていました。

 

【Yahooニュース:「誰かを恨んだりはしない」 家族も名前も失った「原爆孤児」、自分のルーツを求めて

   https://news.yahoo.co.jp/pickup/6333393
(記事から一部引用)

原爆で親を失った「原爆孤児」、調査によると広島には

2000人いたとも6500人いたともされています。

過酷な生活や差別などから、語られることの少ない彼らの

実態。そうした中、被爆から74年、原爆で名前も失った1人

の元原爆孤児の男性が自分のルーツを探し始めました。

“原爆孤児”田中正夫さん
田中正夫さん(78)は4歳のとき自宅で被爆し、両親、

兄弟、さらに自分の名前までも失ってしまいました。

田中さんは生まれつき耳が不自由だったとみられていま

す。

 

戦争は命だけではなく、家族や自分の名前、人生をも奪ったのです。

ふたたび、あの悲劇を繰り返さないという思いを新たにしたいと思います。

平成15年の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で、山崎栄子さん(ろう者)が手話で述べた平和の誓いの感動が思い出されました。

 

山崎さんの「平和への誓い」の全文

 皆さん、私の話(手話)を聞いてください。
 私は、生まれた時から耳が聞こえない、言葉が話せない

ろうあ者です。昭和20年8月9日、一番、おしゃれをしたい

年ごろの18歳でした。

 

 その日、私は、爆心地から北に6キロほどのところの

疎開先の時津町で、バラックの家を建てる両親の手伝いを

していました。
 11時ごろ、少し疲れ横になった時、突然目の前が明るく

なり、オレンジ色の光を放って広がるものが見え、

直後にものすごい勢いで床にたたきつけられました。

いったい何が起きたのか、その時は恐怖よりも驚きのほうが

大きかったのです。

 

 夕方、両親と私は山里町の自宅へ戻ることにしました。

家には3歳年上の姉が待っているはずでした。道ノ尾から

先は道もなく、線路を伝って歩きました。川のかたわらに、

顔や首の皮がはがれ、足をガクガク震わせながらたたずんで

いる人がいて、水が飲みたかったのでしょうが、焼けただれ

た腕は伸ばすことができません。顔がゆがみ、引きつった唇

が何かを訴えようとしていました。


母が、身ぶりで、「イタイ、イタイ」と言っていると教えて

くれました。もちろん、耳が聞こえない私には、原子野をさ

まよう人たちのうめきもなにも聞こえません。

音というものが私にはわからないのです。時々父と母が何か

を話し合っていますが、私にはなにが起きたのかわからなく

て、頭の中はボーとしたまま見ているだけでした。

 

 私たちの家は爆心地近くの山里町にありました。

それは押しつぶされ、残がいの奥に赤い炎を残して

くすぶっていました。母はきっと姉の名前を呼びながら

姿を求めていたのだと思いますが、私は声を出して姉の

名前さえ呼ぶこともできず、ただオロオロしていました。

 突然、うつぶして両の拳で地面をたたきながら泣く母の

様子から、私は姉の死を悟りその背中に覆いかぶさって

大声で泣きました。

夜になって、ようやく道ノ尾に帰り着いた時、浦上の真っ黒

な空からは想像もできないきれいな星が輝いていたことが

今も忘れられません。

 

 私たちろうあ者は家庭にあっても、日常的な会話のほか

は、ニュースやうわさ話から遠ざけられて、ぽつんと孤立

した状況にあります。

そのため、詳しい情報は伝えてもらえないまま月日が過ぎ、

信じられないでしょうが、私は原爆をずっと大きな爆弾と

思っていました。

 終戦から1年たったある日、偶然に見た写真展で、

それが実は「きのこ雲」の形をした「原子爆弾」だと

知りました。
 さらに、被爆者が後遺症に苦しみ続けるといった詳しい

被害の状況を聞かされたのは、それから随分たってからの

ことでした。ろうあ者は長い間、原爆の実態を知ることから

も閉ざされていたのです。

 

 被爆から58年が過ぎた今日、皆さんの前で、こうして

ろうあ被爆者の苦しみを訴えることができて感無量の思い

です。同時に、文字どおり、何も語らないまま亡くなって

いった仲間たちのことを思うと涙が止まりません。

 

 大切な家庭や親せき、友を一瞬にしてなくした苦しみと悲しみを乗り越え、今、こうして生かされている私にできる

ことは、既に亡くなった多くの、ろうあ被爆者の仲間たちに

代わって、この目、肌で感じた58年前の出来事を語り続け

ることです。

 

 いつまでも、世界平和を祈り、この命が続く限り戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代の1人でも多くの人たちに、語り

続けていくことをここに誓います。

 

 平成15年8月9日  山崎栄子

Yahooニュース:『誰かを恨んだりはしない」 家族も名前も失った「原爆孤児」、自分のルーツを求めて』


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